不惑になって思うこと。地域のNPOと共に過ごした30代

先日、不惑になりました。不惑というけれど、惑いまくりの毎日ですw

40歳になって思うのは、あれ、いい年のおっさんになったのに大したことないぞ、と。子どもの頃、40 歳 といったら「ザ・大人」で憧れる存在だったのに自分がなってみると毎日頭を抱えて生きている。過去の認識とのギャップに戸惑います。

地元の足利学校には孔子が奉ってありますが、「不惑」は孔子の言葉からきています。

子曰はく、「吾、十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。六十にして耳順ふ(したがふ)。七十にして心の欲する所に従へども、矩(のり)を踰えず(こえず)」

孔子は「40にして迷わなくなった」と言っていますが、嘘じゃん。ソースは俺。

山本一郎さんの「ズレずに生き抜く」という本を読みました。この「ズレず」というのは、何に対してだろうと読みながら考えました。

自分がズレないのか、社会や未来に対してズレないのか。前者は、自分の芯を曲げず会社や社会に抗って生きていく。若い頃はそれが格好良いことだと思っていました。40になって思うのは、後者こそ「ズレずに生き抜く」ことなんじゃないかなと。言葉遊び感がありますが、自分がズレることがズレずに生き抜くことなんじゃないかと考えています。

30代は 振り返るとズレまくっていたなと。私の昔を知る人から見たら、地域のNPOを立ち上げ、メディアを立ち上げ、不本意ながら「まちづくりの人」と認識されてことを不思議と思われているのではないでしょうか。いまでも「足利を元気にする人(意訳)」と言われると背中がぞわぞわします。

NPO作ったのも、地域メディアを立ち上げたのも、コワーキングスペースを作ったのも、なぜかカフェまではじめたのも、元々人生の予定になかったものです。社会に出たときのスキルセットはIT系でした。

コムラボを作って様々な地域の課題を知りました。「性に合わないんだよなぁ」と思いつつ「波が来ているから乗ってみるか」と気になったものには手を出したい性分もあって9年続けたら「どうしてこうなった状態」が今です。

地方はクソゲーです。ルイーダの酒場へ行こうとしたら酒場がない。頑張って経験値をあげてもゴールドが手に入らない。まだ「どうのつるぎ」しか持ってないのに妙にややこしいモンスターが出てくる。頑張って倒した報酬がこれかよ!と心が折れそうになります。結構レベルアップしたのに、次に強い敵が全然出てこない。歯ごたえがない。何度、東京へ行こうかと思ったことか思い出せないくらい地域に失望しました。

それに比べて東京はファミ通のクロスレビューで殿堂入りしちゃうゲームです。ルイーダの酒場はあるし、レベルに応じたフィールドが用意されてる。武器屋へ行けばレベルに応じた武器が正価で売ってます。レベルを上げれば相応の敵が用意されてる。攻略本も売ってるぞ。

そんなクソゲーをはじめて9年、来年でコムラボは10年になります。狙ったわけではありませんが、私の30代はコムラボと共にありました。一緒に活動してくれる人々に感謝。

若者は殿堂入りしちゃうゲームに憧れてクソゲーに手を出してくれません。コムラボのNPOメンバーは年々減る傾向で、さて、どうしたものかなと。「クソゲーでもプレイの仕方によっては面白いんだよ」と言いたいです。1/1380万で生きるより、1/15万で生きた方が人生の痕跡は残せると思います。

「若者は東京へ追い出される」白鴎大学小笠原ゼミ成果発表会

「若者は東京へ追い出される」白鴎大学小笠原ゼミ成果発表会

今日は夕方から白鴎大学へ。経営学部小笠原ゼミの成果発表会に参加しました。

題目は「北関東で若者が暮らし続ける社会をデザインするために」。4つのグループがそれぞれのテーマで15分発表のあと、質疑応答という流れ。参加者は学生、OG/OB、県庁職員、市役所職員など、教室はほぼ満員でした。

北関東の公共に携わる人(特に行政)は正座して聞いた方が良いんじゃないか、と思うくらい刺激的な言葉がスライドで繰り広げられました。

それぞれの発表は、統計資料を引用した考察・分析、関係役所へのヒアリング結果、それらエビデンスに基づいた必要な方策という流れで各グループが実施。

「若者は東京へ追い出される」
「某県庁は若者のことを重視していない」
「新しい考えや価値を受け入れる度量がない」
「古い価値観を押しつけ、社会の変化に対応できていない」

私も過去、地域から追い出された者として「あー、わかるw」とニヤニヤしながら聞いてました。

質疑応答で印象的だったのは、某市役所職員が「若者が追い出される」「若者に干渉しない」の発表内容に質問をしていてゼミ生との話が平行線だったこと。

あれ、これっていじめに似ているのかなと思いました。被害者側はやられていると感じている。加害者側はそういう認識がなくて、指摘を受けて「具体例を示して欲しい」と証拠・根拠を求める。「私がしたことのどこがいじめだっていうの!?」みたいな。加害者が歩み寄る姿勢が全くないです。

小笠原先生が「若者の数少ない特権は逃げること」と仰ってて、確かにそうだなと。地方に住みたいと思っても働きたい仕事がない、新しいことをやろうと思っても古い価値観で判断されて肯定して貰えない。地方に自分の居場所がなければ、ヒト・コト・モノが溢れる東京へ行くしかありません。

ヒアリング結果の県庁や市役所の話を聞く限り、地域から逃げる若者は減りません。行政は「昔、若者だった自分」の情報を元に判断しているきらいがあります。質疑応答でも「私の若い頃は~」と話す大人がいました。いまの若者の本音を聞く術を考えず、寄り添うこと、寄り添えないなら良い意味で構わないことができない。家庭環境などで逃げられない若者、もしくは事実が見えていないおめでたい若者たちを担い手として今後地域はやっていけるのでしょうか。

色々と考えさせられた成果発表会でした。参加して良かったです。みなさんおつかれさまでしたー!

白鴎大学小笠原ゼミ成果発表会

課題を先送りすることで人生の逃げ切りが”出来ない”私たちがやること

20~30代が負う「日本型先送り」の甚大なツケ | 国内経済
今の日本は戦後かつてないほどの大きな課題を数多く抱えています。内政的には1000兆円を超えるほど政府部門の財政赤字が膨らんでしまい、年金・介護・医療といった社会保障制度が超少子高齢化で持続可能性が危ぶま…

東洋経済に上記記事が掲載されました。20年後に景気か不景気か、なんてことは分かりませんが、人口推計はかなり精度の高い未来予想です。

10年後、20年後の人口構成から見えてくる社会の課題について、先送りしまくって今がある。すでに様々な問題が見える化していく中で、これからも先送りしていくのか。残念ながら政治や経済の意志決定者である中高年が「先送りすることで人生の逃げ切り」を決めようとしている節があるので、先送りされるのだと思ってます。

「過去」と「現在」と「未来」という考えられる限りの課題の全部を数十年後に無茶ぶりされる今の20代、30代。その時がやってくる前から行動することで来たるべき人災に準備する。難題を押しつけられたら自体を変えていく能力や経験を今から意識して身につけないとやばい。地域を知るには地域メディアが必要だという認識でメディア運営をしています。

地元もそうですし他の地域を見てもそうですが、まちづくり系の多くは「昭和の成功体験の再現」「他の地域で成果が出たことの劣化コピー」を目指しているように思えます。一見若い人がやっているように見えても中身は「歳を取った若者」的思考が垣間見られます。

私たち、コムラボは名前の通り「ラボ=実験場」です。自分たちが正しいとか合っているとか考えていません。正解がない課題への取り組みだからです。「こういうことが考えられるのではないか」という仮説に対して検証し、次の打ち手を変えていくことをやっています。

今日のカレンダーを見て「ああ、8年前の今頃、丁度活動を始めたんだなぁ」と思ったのでつらつら書いてみました。あの時、8年後にカフェを作るとは想像すらつきませんでした。「20年前にはこんなことやってるとは想像つかなかったなぁ」と仲間たちと笑いながら話せる未来が創れれば良いなと。

「君の名は。」をユナイテッド・シネマ アシコタウンあしかがで見てきました

なかなか時間が作れず、ようやく「君の名は。」を見ました。長女、長男、次女、同伴。長男は妖怪ウォッチが気になるようでしたw

「彼女と彼女の猫」からの新海誠ファンとしては、大作映画の製作システムになって新海節はどうなるのか心配でしたが、それは要所要所にあって楽しめました。子どもたちと一緒に行きましたが泣いた。おすすめです・・・って、もう累計1500万人以上が見てますがw

世界観はありつつも登場人物のストーリーを広げない。彼と彼女の視点でしか物事を書かない、それだけに107分を費やすという選択と集中が新海監督には合っているような気がします。世界観の描写は登場人物を描こうとして収まらなかったのが「星を追う子ども」なのかなと。

新海監督は彼氏彼女未満の「距離による断絶」を「雲のむこう、約束の場所」で描き、「自分たちでは抗えない断絶」を「秒速5センチメートル」で描き、「時間による断絶」を今回の「君の名は。」で描きました。次の作品だと何になるんでしょうかねぇ・・・。ここまで売れちゃったし、次で結果を出せるかが気になります。

その交流会、本当に必要ですか?

「地域の様々な人たちを巻き込んで」と嬉しそうに言う人たち | 長田英史|場づくり® | note
NPOや市民活動、地域活動の世界でよく使われる、「地域の様々な人を巻き込んで…」というフレーズがあります。「地域の様々な人たちを巻き込んで、お祭りを開催しました」「地域の様々な人たちを巻き込んで、どんどんつながりが出来ました」こんな風に、たいてい肯定的に使われます。「地域の様々な人たちを巻き込んで」成功した例は、たくさんあります。僕自身、そういう動き方をしたこともあります。ただ、僕はこのフレーズがあまり好きではありません。「様々な人たちを巻き込んで」ということを肯定的にとらえているのは、「巻き込んだ側の人たち」ではないかと思うからです。NPOは“善いこと”をしていると思う?いくつかの大

大勢集まって盛り上がるのも楽しいですが、見るべきものは盛り上がりではなく、本質です。あなたがやろうとしていたことは、その盛り上がりのなかで、本当に達成されていますか?

 

コムラボが毎月やっていた交流会、名刺交換会をやらなくなったきっかけはこれが理由です。

毎月交流会を続けても、Facebookで知り合いが増えて、盛り上がったと錯覚するような写真をペタッとタグ付けして終わり。そこに生産性や未来につながるようなことはないと思うんですよね・・・。ただ単に集まるのではなく目的意識を持ったプログラム作成が必要なんだと思います。

大分視察旅行へ行ってきました


大分県への2泊3日の視察旅行から帰ってきました。きっかけは今年頭まで足利に住んでいた大分県出身の曽根田くんです。(写真左手前)

最初はふっこう割で安く行けるぞ!2016年後半戦も頑張ろう、温泉に入って英気を養おうみたいなノリで7月に申し込んだのですが、人のつながりで曽根田くんが生まれ育った大分県佐伯市内を回り、立命館アジア太平洋大学、別府市役所とギュウギュウにスケジュールを詰め込むという・・・。曽根田くん、色々ありがとう!

7月に行ったカリフォルニアもそうでしたが、どこかへ行こうとすると人のつながりのおかげであれも見てみたいこれ行ってみたいと予定を組むのでコムラボは慰安旅行ができない団体なのかもしれない。

やりたいこと、やらなきゃいけないことを淡々とこなしていきますかねー。

ユナイテッド・シネマアシコタウンあしかがでドラえもんをみてきました

12795066_10208490365367220_7732907936571185588_o

久しぶりに地元に映画館が出来たので子どもたちと映画ドラえもんを見てきました。

今回の監督・脚本は新・のび太の大魔境の監督だった八鍬新之介さん。私と同じ世代で、おそらくドラえもんを見て育ち、アニメーションの世界に入られた方。 オリジナルの説明不足だった描写を丁寧に描いて、それだけだと尺に収まらないので省いても良い部分は思い切って削除という感じでしょうか。最適化をきっち りやったという感じで新しい要素が少なかったのは物足りないところか。

6番シアターは小さめ(収容100名ちょっと)なこともあってか、音響に違和感が。音量は大きいけど解像感がないといいますか。席は真ん中から上だったこ ともあって、膝のあたりで音がなっている感じがして音に広がりがなかったような。109シネマズや太田イオンでも小さめのシアターで見たことありますが、 こんな感じではなかった記憶が・・・。他に行った方、感想求むw